死=涙、に異を唱える

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色々な物語において毎回感じてしまう違和感
「死=涙」

ボクは今まで、様々な死と対面してきました。
人の死、動物の死、植物の死、企業の死、文化の死、言語の死、感情の死…

どんなモノでも死ぬと、それを見てる人、その物語を経験してる人は涙する…という解釈はいささか単純すぎるのではないか?…と思う。

確かに、何かを失うのは悲しい。
しかも、それが自分の近しい存在であればあるほど、涙が込み上げてくるモノ…。

しかし、その前に込み上げてくるモノがあるはず…それが人であればあるほど、より感じるモノがあるではないか…!

ボクが思うところではありますが…
涙は心に余裕がないと流せない

つまり、何かの死について真剣に受け止め、噛み締め、実感するには心の余裕が出来ないと全く感じる事は出来ないと思う。

例えば、誰かが死んだ…その知らせを聞いた瞬間に泣く人は、確実に犯人…またはそれに絡んでる人。

何かの死に直面したモノは、それについてなかなか飲み込めない。
人間のみならず、動物しかり植物もまたそれであると思う。
→理由は、今までにその部分と接してきて感じた事。
→子供が死んでスグに遠吠えをする犬はいない。
→ツボミが枯れて、スグに発育が悪くなる植物はない。

じゃあ、普通のリアルな存在はどうなるか…?
死に直面すると、大概のモノは今後どうするかを考える
→つまり、思考回路が活性化されて今後をどう生きるか?を超真剣に考える
→顔がマジになり、感情など二の次三の次になる。

物語…として表すなら、「死」というのは物凄くインパクトを与え且つ見てる人の感情をシッカリとキャッチする絶好のポイントなので、
こう言う部分にはジックリと時間をかけるべきと考えます。

しかし、ココを疎かにする人は、「死」というものを軽く捉えている、または軽く演出している…としか思えない。

それが良いか悪いかを言いたい訳ではなく、
それをどう使うか否かを…強いて言うならソコを言いたい。

僕的観点は…と言うと、
誰かの死については一切泣けない…
そう言う事が過去に起こりすぎて、泣くなんて言う感情すら起きなくなってしまった。

逆に、どうしたらボクが泣くか…
窮地に迫られ、悪戦苦闘した後、無事だった…
そんな時に泣けます。

死…より、助かった事に安心して泣けます。
つまり、過去の思い出について泣くのではなく、
未来について安心した瞬間に泣ける…
これがボクの純粋な感情であります。

さて…この記事を読んでくれた人…
アナタはどちらの人間ですか?
どちらが良い…悪い…と言うものはないと思いますが、
どちらの方がより他人に伝わると思いますか?
そして、アナタの伝えたいモノはどちら寄りの考え方でしょう?

今回この記事を書いた理由は…
型ばかり追い求める人が多すぎる
最近は型ばかり追い求める人が多すぎるという事が残念で仕方ない…という事。

もっと、自分らしいモノを表現したら良いのに…
それを切に感じました。

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