「でも…」とか「だって…」とか言いたくなる心情

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だいたい「でも…」とか「だって…」を頻発してる人は
・大したことない人間
である可能性が高い

何故か…?
理由は、「でも…」とか「だって…」という言葉は
それ以前に出てきた話を振り出しに戻してしまったり、無かったことにしたかったり、自分の意見を曲げたくない時に出てきてしまう言葉だから

現代っぽい解りやすい表現で例えるなら
「リセットボタン」

現代の人はこの「リセットボタン」を気軽にすぐに押したがる
しかし、相手が述べた言葉に対して気軽に「リセットボタン」を押しても良いのだろうか?
一個人の意見というのはそんな希薄に扱われても良いのだろうか?
逆に何故、現代人は他人の意見を希薄に受け取ってしまうのだろうか?

恐らく、自分以外の人が持っている意見には興味が無いのであろう
自分以外の人が持っている意見を理解する気が無い…理解しようとしても理解できないからやらない…
そもそも、自分の中の意見が自分にとって一番都合の良いモノだからそこに理解できないモノを投入したくない…
とっても普通な症状ではある

要するにこの症状は、自分以外のモノとのコミュニケーションを取りたくないということ
つまり「コミュ症」ではないか…?

「コミュ症」であろう人の特徴
イライラしがち、悩みがち、妄想力が半端ない、声が小さい、滑舌が悪い、表情筋が動かない、目を合わせられない、下を向いて歩く、話しは短いモノを好む、優柔不断、新しいモノに手を出しにくい、あまり人生の成功例を持っていない、電話が苦手、
などなど…

実はボク自身、20代の頃までは「でも…」とか「だって…」をよく使っていた
つまり、「コミュ症」であったのでこういう人の気持ちが良くわかる

基本「自分が最強」と本気で思っていた…いや、これは今でもたまに思うことではあるがw
自分が最強というか、周りがつまらなすぎる・くだらない…と本気で感じていた

その頃のボクは、会話は苦手で声は小さく、町ですれ違う人と妄想の中でよくケンカをして必ず勝って、下を向いて歩いてるのでよく落ちてるお金を拾い、会話が苦手なので興味がある女性からはもちろんモテることはなかった…むしろ変態扱いされて嫌われていた

そんなクソみたいな人間が、作曲家として世の中を変えてやろうとか本気で思っていたから片腹痛しw

作曲も他人を相手にする表現の一つなので「コミュ症」な人間には到底無理な話で
実際、事務所の人からは「良く解らない曲だな」とだけしか評価してもらえてなかった
状況としては、一表現者として一番最悪
評価して良し悪しを決める…以前の問題「理解できないから評価も出来ない」

ある時、自分の意見が率直に認められた時があった
「どうせみんなに認められないんだから、超テキトーに手抜きしまくって、なんとなくその雰囲気が伝われば良いんでしょ?」
というナメた気持ちで挑んだ楽曲コンペ
結果は、他を押し退けてダントツの1位評価

この瞬間からボクの人生が大きく変わった
その時は、何故良い評価を得たのか全く意味が解らなく、
「世の中こんなもんで良いのか?」
と呆気にとられていた

今考えれば…なのだが
実は、偶然大正解をやっていただけ

手を抜くとか技術がどうとか一生懸命とかは特に必要なく
「伝われば良いだけ」
コミュニケーションなんて、そんなもんである
表現方法はどんな形でも良くて
ただ自分以外のモノに伝われば良いだけ
むしろ、それだけで良い

そこに気が付けた人が
ようやくコミュニケーションのスタート地点に立つことが出来る

その先に、その次に、綺麗な言葉遣いであったり相手の気持ちを理解するとかのオプションが付いてくるわけで…

「でも…」とか「だって…」という「リセットボタン」を使いたくなってしまう人は恐らく
コミュニケーションのこんな簡単なスタート地点に立たずにいきなりその先のステージに移動してしまうから
結果何も出来ず何も受け入れてもらえずイライラして凹んで「リセットボタン…」という選択肢を取るんだろう

やっていることが訳解らなければ不安だよ
そりゃ「リセットボタン」押したくなるよ
「でも…」とか「だって…」という言葉が出ているのは不安の現れ

芸能というエンターテイメントの世界はそのスタート地点にまず立つことが大切…というか、そのスタート地点を見据えることが出来ないと何をしたとしても全く面白くない

そんなエンターテイメント養成の場である芸能スクールで働き始めて数年
数々の「コミュ症」と出会ってきたが、
そのほとんどが芸能に生かせるコミュニケーションを身に付けて卒業していった
人間と思えないような人でも、最後にはちゃんと立派な人間に成れた
この結果がボクの自信である
故に、現在のボクは「リセットボタン」を押したくなるような不安な人間では無いということ

芸能で何をしたら良いかが解る人は、普通の人としても優れている
だからか…?ボクがスタッフをしている芸能スクールは、必ずしも芸能を目指している人ばかりではなく
「普段の仕事で見失いがちな人間を取り戻す為にスクールに通っている」
という人もいる。

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